2007年12月 2日 (日)

「技術を知る」IRフォーラム

121 日興IR()の主催する3社のIR説明会をベルサール神田で拝聴した。

1.三菱レイヨン、2.昭和電工、3.日立建機 3社でした。

私は40年前ぐらいから少額投資家であり、ろくに儲けたことはないが、損は何回もある万年 少額投資家です。そんな私にとって懐かしい銘柄である。最近は聞いたこともないベンチャー的な銘柄が多く、幅を利かせているように思われる。そんな時にこの3銘柄のIR説明会、しかも「技術を知る」IRを聞いた。

1.昔のレーヨン会社、今はどうなっているのだろうと思いきや、新技術開発で発展している。

2.昔の中堅化学会社、これまた新技術開発で発展している。

3.元気のない大日立の子会社、悪い影響を受けず元気のようだ。

このような中堅の会社(今は大会社?)が元気があり、技術開発を重点に、発展していけば、モノズクリ日本はまだまだ期待できると胸をはってよいのではないだろうか。

2007年8月15日 (水)

終戦記念日に思う

62年前の815日、日本は太平洋戦争で連合国(白人)に負けた。

15世紀頃からの大航海時代で白人が世界を席巻し、アジアもタイ以外は植民地と化した。日本は江戸時代の末期に植民地化の危機にさらされたが勝海舟や坂本竜馬等の志士たちの努力もあり独立が保たれた。

日本の敗戦即ち終戦を機にアジア諸国が独立戦争を起こし次々独立した。白人時代が終焉し黄色人自身の手に移ったわけである。

今やアジアの大都会は高速道路あり、高層ビルあり、はたまたIT製品の製造をし、輸出している。今後、数百年後には黄色人時代も来るかも知れない。?

2007年5月 1日 (火)

戦中の思い出5

特攻隊

私が9才頃の話であり、記憶が正しいとは言い切れません。

特攻隊は特別攻撃隊の略である。これは通常の攻撃とは違う特別の攻撃である。アメリカの艦船に爆弾を一発積んで突っ込むものであるが、この成功率は非常に大きいと思われた。戦艦の急所に当たれば撃沈又は航行不能になるが、大戦末期には殆ど成功しなかったと後に聞いたことがある。

私は当時子供ながらに疑問を持っていた。1つには誰がこれを発案したのだろうか? もう1つは志願して行くと聞いているが本当だろうか?

今でもこの疑問は解決されていない。

2007年4月14日 (土)

戦中の思い出4

学童疎開

私が9才頃の話であり、記憶が正しいとは言い切れません。

世田谷の三宿小学校に就学していた。終戦の年の4月~6月頃の話です。

私は兄も姉もいますが、みな学童疎開に行きましたが、なぜか行先はみな違っています。

私の場合は長野県伊那郡伊奈町と言う所のお寺(確か常円寺と言ったと思います?)に行きました。思い出が幾つかありますので、紹介します。

お寺の本堂の大広間に数100人の児童が寝起きを共にしていました。朝は6時に起床、本堂の周辺の自分の場所に布団をかたずけ服を着かえ、それからノミ取りを30分程度します。

この地元の小学校へ通っていましたが、地元の子は丸々太って、顔は赤く(血色がよく)、行動的でした。これに反し、疎開児童は痩せて、血色は悪く、活発でなく、まったく対照的でした。食糧不足のため、畑でイモを盗み、生でかじりよく下痢をしました。また、桑畑から桑の実を盗り、食べ、口の周りを真っ赤にしていました。

下校後、集団で山へ薪をとりに行き、多分直径5cm長さ40cmぐらいの木を背負って来ましたが、重労働だったと記憶しています。しかし、空気は澄みきっていて、かっこうが鳴き、新緑の芽の匂いがぷんぷんして心地よさを記憶しています。

こんな時代でも、寮母さんや地元の学校の先生や仲間のひいきいじめがあったことは言うまでもありません。

2007年4月13日 (金)

戦中の思い出3

原子爆弾

私が9才頃の話であり、記憶が正しいとは言い切れません。

終戦の年(昭和20)8月広島、長崎と続けて原子爆弾が投下された。これを新型爆弾と称していた。

後日、何かの機会にアメリカは戦争を早く終わらせるために原子爆弾を使ったと聞いたが、それはウソだと思った。戦争が終わってしまう前に原爆の実地試験をしたかったのに過ぎないと思った。今もそう思っている。

このころの戦場と言えばもはや東京上空(他の都市もそうかも知れない)そのものである。しかも、この時期になると、もはや日本には交戦能力がなく、毎日空襲であった。

昼はB-29(当時そう言っていた?)が高層圏を編隊を組んで飛んでいて、日本の高射砲は遥か下までしか届かなかった。夜は世田谷から見て東京都心が戦災で真っ赤に染まっていた。毎日がこの光景であった。

2007年4月12日 (木)

戦中の思い出2

天皇陛下

私が7~9才頃の話であり、記憶が正しいとは言い切れません。

戦時中の天皇陛下についての記憶について幾つかあります。

小学校の講堂(今の体育館とちょっと違う?)の正面中央に扉が開くようになっていて、その中に天皇と皇后の写真が並んでいた。講堂に入室した時は必ず最敬礼をした。いや、やらされていた。

市電(当時は都電ではない?)に乗って、神宮前と皇居前を通過する時、必ず起立し、しかるべき方向に向かって最敬礼をした。いや、やらされていた。

当時、何となく聞いていた話として、天皇は人間ではなく、竜の頭をした世にも珍しい貴い生き物だと聞いていた。

出征兵士は国のため、家族のためでなく、天皇のために死を覚悟して出征していった。出征兵士の見送りで近所の人たちが集まり「天皇陛下 万歳!」と言って見送ったのをよく見かけたものである。

1945(昭和20)815日の真夏の日照りの強い日に、天皇陛下の玉音放送があった。正直何を言っているのかピント来なかった。